私たちは案外、無意識のまま過ごせる
日常のできごとに追われがちな私たちは、自分の「内側」で起きていることに気づかないまま、過ごしていることがあります。
子育てや仕事など外側に追われると、とくにそうです。
私たちが意識して過ごしていると思っていても、それは単に、感情の渦や、思考の嵐に巻き込まれて過ごしているだけのことが、ほとんどです。
このとき、意識のベクトルの向きは、外側です。
「意識的でいる」とは
「意識的でいる」とは、自分自身にベクトルを向け、【自分を観察して、自分のすべてに気づいている】ことをさします。
でも、やったことがないと、「ずっと気を張っていること」と誤解したり、何のことだかさっぱりかもしれません。
意識的でいると、自己把握ができるので、自分のことも他者のことも大切にすることができます。
他者は、自分の内面の投影だからですね。
この記事で、意識的でいることについて、もう少し学んでみましょう。
観察する際の注意点
自分自身を観察して、自分のすべてに気づいていることとお伝えしましたが、「気づいている」とは「認知する」ことです。
認知するとは、そこにあるものを「〇〇がある」と気づくことで、「ボーッと眺めているだけの状態」とは、似て非なるものです。
ただ「〇〇があると気づくだけ」でなければいけません。
つまり、解釈やジャッジメントはしない、の意味です。
たとえば、りんごを観察する場合。
りんごの存在だけを認知して、そのりんごが、赤くて甘そうとか、大きくて立派だな、といった、意味を付けないことです。
意味づけが、解釈やジャッジメントになるからなんですね。
自分や相手を「ありのまま見る」というのは、意味づけをしないことを指しています。
観察の理解をもう一歩、深めよう
「自分のすべて」とは、心の中・頭の中、体、そして、すべての行動のことをさしています。
これらを観察するには、まず、相手や状況に向けられていたベクトルを自分に向け、「自分のすべてに客観的になる」必要があります。
「客観的になる」とは、「観察する対象と距離をとる」ことでもあります。
文字で読むだけだと、頭がフリーズするかもしれません(笑)
実際にやってみると、わかると思うのですが、りんごを目頭につけたら観察はできませんが、距離をとると、できます。
観察するには、ある程度の距離が必要なんです。
それと同じように、感じていること・思っていること・考えていること・体感・自分の振る舞いなど自分のすべてを、あえて自分から切り離してみることで、客観的に観察できるようになります。
こうして読むだけだと、ややこしく感じるかもしれませんが、実際にやってみると何となくわかるようになり、できるようになると、とても単純だとわかると思います。
できるようになるには慣れです
まずは、ご自身の体に意識を向け、自分の体や体の感覚を観察することから始めてみてはいかがでしょうか。
たとえば、朝布団の中でまどろんでいるとき、信号待ちしているとき、歯磨きしているとき、食器を洗っているとき、お風呂に入っているときなど、いつでもよいのですが、体に意識を受けやすいタイミングで。
体のどこに力が入ってるとか、どこが疲れてるとか、どこがザワザワするとか、呼吸が浅くなってるとか。
体を感じてみたら、内面で感じていること・思っていること・考えていること・自分の振る舞いにも観察を広げます。
第三者になったかのような離れたところから、眺めてみましょう。
とにかく継続することが、マスターへの最短の道です。
意識的でいると真実に目覚める
自己対話するときも、私のセッションで気づきの対話をするときも、意識的になり、ご自身を観察していただきます。
日常の中で、意識的でいる時間を持てると、自分の本当の思いや感情に気づけたり、他者との心の境界線を適切に保ったコミュニケーションがしやすくなります。
感情の渦や、思考の嵐に、巻き込まれなくなっていきます。
巻き込まれても、それが真実ではないことに気づいていけます。
そして、本質のあなただけが残ります。